旧・ホームページに掲載していた「読書案内」を移転しました。今後は随時こちらに追加していくので、ぜひ読書の参考にしてみてください。
フランス映画の作品紹介も少しずつ更新していきます。(あらすじの説明は極力最小限に抑えています)
目次
- 16世紀以前
- 17世紀
- 18世紀
- 19世紀
- 『赤と黒』Le Rouge et le Noir, 1830 スタンダール
- 『ゴリオ爺さん』Le Père Goriot, 1835 オノレ・ド・バルザック
- 『モンテ=クリスト伯』Le Comte de Monte-Cristo, 1844-45 アレクサンドル・デュマ
- 『カルメン』Carmen, 1845 プロスペル・メリメ
- 『愛の妖精』La Petite Fadette, 1849 ジョルジュ・サンド
- 『ボヴァリー夫人』Madame Bovary, 1857 ギュスターヴ・フロベール
- 『レ・ミゼラブル』Les Misérables, 1862 ヴィクトル・ユゴー
- 『テレーズ・ラカン』Thérèse Raquin, 1867 エミール・ゾラ
- 『脂肪の塊』Boule de suif, 1880 ギ・ド・モーパッサン
- 『未来のイヴ』L’Ève future, 1886 ヴィリエ・ド・リラダン
- 20世紀以降
- 『狭き門』La Porte étroite, 1909 アンドレ・ジッド
- 『失われた時を求めて』À la recherche du temps perdu, 1913-27 マルセル・プルースト
- 『肉体の悪魔』Le Diable au corps, 1923 レイモン・ラディゲ
- 『百頭女』La Femme 100 têtes, 1929 マックス・エルンスト
- 『恐るべき子供たち』La Les Enfants Terribles, 1929 ジャン・コクトー
- 『異邦人』L’Étranger, 1942 アルベール・カミュ
- 『星の王子様』Le Petit Prince, 1943 サン=テグジュペリ
- 『悪童日記』Le Grand cahier, 1986 アゴタ・クリストフ
- 『天国でまた会おう』Au revoir là-haut, 2013 ピエール・ルメートル
- 『セロトニン』Sérotonine, 2019 ミシェル・ウェルベック
- 映画紹介
- 『パリタクシー』Une belle course, 2022
- 『燃ゆる女の肖像』Portrait de la jeune fille en feu, 2019
- 『レ・ミゼラブル』Les Misérables, 2019
- 『シンク・オア・スイム:イチかバチか俺たちの夢』Le Grand bain, 2018
- 『エール』La Famille Bélier, 2014
- 『アデル、ブルーは熱い色』La Vie d’Adèle, 2013
- 『わたしはロランス』Laurence anyways, 2012
- 『最強のふたり』Intouchables, 2011
- 『あるいは裏切りという名の犬』36 Quai des Orfèvres, 2004
- 『スパニッシュ・アパートメント』L’Auberge Espagnole, 2002
- 『ディーバ』Diva, 1981
- 『ロシュフォールの恋人たち』Les Demoiselles de Rochefort, 1966
- 『気狂いピエロ』Pierrot le Fou, 1965
- 『大人は判ってくれない』Les Quatre Cents Coups, 1959
16世紀以前
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』Gargantua et Pantagruel, 1532-64 フランソワ・ラブレー
巨人ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語はとにかく抱腹絶倒。400年以上も前にこんな凄い小説が書かれたことが信じられない怪作。無数の造語はあまりにも翻訳家泣かせであるが、岩波文庫の渡辺一夫の訳もまた、ある意味強烈で一読忘れがたい。忘れてはならないのは、この諧謔の裏に、優れたユマニスト(人文主義者)である作者ラブレーの思想が横溢していること。『ドン・キホーテ』と双璧を成す、この希代の奇書を是非読んでほしい。
(毛髪山)
『エセー』Essais, 1580 ミシェル・ド・モンテーニュ
法律家にしてボルドーの市長でもあったモンテーニュは、後年隠棲して思考の「試し」essaiに勤しむ。争いやまない激動の時代の中にあって、いかに人は寛容になれるのか。それは、自分自身を知ることによって、人がいかに誤りやすく、愚かなものであるかを知ることによってしかありえない。『エセー』が今こそ読まれるべき書物であることに、もはや言を俟たないであろう。必読の書。
(毛髪山)
17世紀
『箴言集』Réflexions ou sentences et maximes morales, 1665 ラ・ロシュフーコー
ぱっと開けば「青春は間断なき陶酔である。理性の熱病である」なんて言葉が飛び込んでくる。いわゆるフランス的「エスプリ」を感じとるのに最適の書。機知を縦横に振りまいて、ちょっと傲慢に過ぎるほどに人間の心理をばっさりと切り取ってみせる。「恋の病は先に治るほうがよく治るときまっている」「およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない」等々、説教臭いといえばそれまでながら、さりげなく使ってみたくなるような文句に溢れているのも確かで、とにかく一度は目を通しておきたい。
(毛髪山)
『ドン・ジュアン』Dom Juan ou le festin de pierre, 1665・『人間ぎらい』Le Misanthrope, 1666 モリエール
誰もが持つ性格上の欠点を一人の人物に凝縮させるところからモリエール一流の「性格喜劇」が生まれる。笑いながら同時に胸打たれるような気分にさせられるのは、まさしく登場人物の滑稽な姿の内に、自分の姿を垣間見させられるからに他なるまい。ラシーヌ、コルネイユとあわせて古典劇の三巨匠として、みんな名前だけは知っているけれど、作品をちゃんと読んだことのある人はどれだけいるだろうか。実にもったいない話である。
(毛髪山)
『アンドロマック』Andromaque, 1667・『フェードル』Phèdre, 1677 ジャン・ラシーヌ
古典悲劇の傑作にして、演劇史上かつて並ぶものなき最高の作品。そう呼んでも大げさではないのが『フェードル』をはじめとするラシーヌの作品である。行動に頼らず一切を言葉で説明しつくすところに古典悲劇の大きな特徴があるが、燃え上がる恋の情念がかくまでも格調高く、かくまでも美しく表現されたことはかつてない。三単一という厳密な規則は、ラシーヌにあっては決して身を縛る制限ではなく、まさにその厳密さの上にこそ、彼の劇作法の真髄は発揮された。ここにこそ完璧があり、これを前にしては一切が生ぬるいものに感じられるとしても、不思議ではないのである。
(毛髪山)
『パンセ』Pensées, 1670 ブレーズ・パスカル
第一部、神なき人間の不幸、第二部、神とともにある人間の栄光、という構想のものとに書き綴られた本作は、しかし未完のままに残された。各断章の配列を巡って様々な議論が繰り返されてきた歴史を持つ書物でもある。人間の存在の根源を追及したパスカルの思想は、護教論の域をはるかに超えて、後世に絶大な影響を残しつづけ、なお今がある。全部を読み通さなくてもいい。どこでもいいから頁を開いて、作者の言葉に耳を澄まして聞き入ってほしいと思う。
(毛髪山)
『クレーヴの奥方』La princesse de Clèves, 1678 ラ・ファイエット夫人
——「自分のあなたを慕う心も捨てられると思わないのですけれど。しかし、そういう心はあたくしを結局不幸にするものなのだから、これからもあなたのお姿を見ないようにするつもりですの。どんなにつらいことであっても。あたくしを好いてくださっているのなら、どうぞ会わないでくださいまし」
物語に描かれる葛藤は、この台詞に全てが集約されている。社会や倫理に鑑み、自分自身に課した貞節や道理という束縛と、生まれて初めて恋をした衝動との間で悩みもがく、王朝時代の貴族社会に強く要請された世間体や常識的モラルによって生まれる悲劇的なストーリーがなんとも美しい。夫を持つ節度ある理想的な妻であろうとする理性と、妻としての裏切り行為でありながらも、どうしようもなく募ってゆく恋心との間で苦悩するクレーヴ夫人の心の機微が丁寧に描かれ、フランス心理小説の先駆けとされているこの作品は、時代を超え国境を越え、恋をするあらゆる人間の共感を呼ぶのではないだろうか?
(涌井)
18世紀
『マノン・レスコー』Histoire du chevalier des Grieux et de Manon Lescaut, 1731 アベ・プレヴォー
マノン・レスコーは、ファム・ファタル(宿命の女)として、カルメンと並んで有名な女性。本来は『隠棲した貴族の回想と冒険』という長い作品の一部を成す。プレヴォーは膨大な作品を残したが、ほとんどこの一作のみが今も読み継がれている。純情な男を裏切り続けながら、決して悪びれず自由奔放なマノンとは、あるいは男性にとっての永遠の理想像なのか。
(毛髪山)
『危険な関係』Les Liaisons dangereuses, 1782 ラクロ
書簡体小説の持つあらゆる可能性を駆使し、このジャンルを完成させると同時に、その流行を終わらせるに至らしめた、不滅の傑作小説。書簡とは、相手に読ませるために書かれる、極めて戦略的な代物に他ならない。同時に本小説は18世紀の自由主義者、リベルタンの象徴とも言うべきヴァルモン、メルトゥイユ侯爵夫人という二人の人物を見事に描き出している。電子メールの隆盛する現代、手紙の真の威力を知らしめるこの作品を一読する価値は大いにあると言えよう。
(毛髪山)
『孤独な散歩者の夢想』Rêveries du promeneur solitaire, 1782 ジャン=ジャック・ルソー
『告白』『新エロイーズ』『エミール』『人間不平等起源論』等々、18世紀の思想家ルソーが後世に与えた影響は計り知れない。本作は、取っ掛かりとして最適なばかりでなく、(ルソーの作品はどれも長くて大変!)晩年のルソーの思想を知ることが出来る点でも重要な書物。時にもっとも美しいフランス語とも称えられる名文を、是非原文でも味わってほしいもの。
(毛髪山)
『運命論者ジャックとその主人』Jacques le Fataliste et son maître, 1796 ドゥニ・ディドロ
百科全書派として有名な18世紀の哲学者ディドロは、
(菅野)
19世紀
『赤と黒』Le Rouge et le Noir, 1830 スタンダール
スタンダールの小説はとにかく熱い。胸に野心を秘めるジュリアン・ソレルの人物像は、一見屈折していて捉えにくいが、そこにも確かに普遍的な青年の姿が見て取れる。赤は軍服、黒は僧服と一般に解されるように、出世のためにいずれかを選ばんとする彼の姿を通して、19世紀初頭のフランス社会を垣間見ることも出来る。「生きた、書いた、愛した」と募名碑に記されるスタンダールの文学こそは、まさしく情熱の文学といっていい。『パルムの僧院』もすこぶる面白いのでお勧め。彼はこの作品をほとんど口述筆記で、怒涛の勢いでしたためたという。繰り返そう。スタンダールの小説は、熱いと。
(毛髪山)
『ゴリオ爺さん』Le Père Goriot, 1835 オノレ・ド・バルザック
田舎から上京してきたばかりの青年ラスティニャックは、学問で身を立てるか、出世の道を選ぶかと逡巡する。そこに現れる謎の男ヴォートランは、一攫千金の甘い夢を持ちかけて青年を誘惑する。「父性のキリスト」たるゴリオの情念と同時に、青年の野心こそが本作のもう一つのテーマでもある。様々な伏線がからまりあい、一つに収斂する結末までの展開は圧巻。小説を読む醍醐味がここにある。タイトルに騙されず、冒頭の長ーい描写(?)にも騙されず、一歩物語の中へ踏み出せば、あとはもう巻を置く能わずだ。『従兄弟ポンス』『従姉妹ベッド』『幻滅』『娼婦の栄光と悲惨』『谷間の百合』と傑作ぞろいのバルザックはもっと読まれていい。藤原書店の『バルザック・セレクション』で簡単に入手することの出来る今、バルザックを読まないことは、人生の大きな損失だ。
(毛髪山)
『モンテ=クリスト伯』Le Comte de Monte-Cristo, 1844-45 アレクサンドル・デュマ
無実の罪で投獄された主人公、エドモン・ダンテスの凄絶なまでの復讐の物語。ファリヤ神父との邂逅、脱獄、財宝の発見を経て、大金持ちになったダンテスは、謎多いモンテ=クリスト伯としてパリに戻ってくる。狙いを定めた相手一人一人を破滅に追い込んでいく様は痛快であると同時に痛切でもある。『岩窟王』の名で古くから知られる本作は、決して長すぎることなどなく、とにかく無類に面白い。『三銃士』と合わせて超おすすめの一作。
(毛髪山)
『カルメン』Carmen, 1845 プロスペル・メリメ
ビゼー作のオペラにもなっている、誰もがその名だけは知るだろう、フランス文学史上随一の有名女性。読んだことないのは恥ずかしいかも?自由を求め、一切の束縛を拒むカルメンに翻弄されるドン・ホセは盗賊へと身を落とし、最後には彼女を殺すに到る。女が悪いのか、男が馬鹿なのか。いずれにせよカルメンの造形に、作者の利の全てがある。なおメリメには他にも『マテオ・フアルコネ』『エトルリヤの壷』といった良質の短篇がある。簡潔にして味わい深い名文に、合わせて触れてもらいたい。
(毛髪山)
『愛の妖精』La Petite Fadette, 1849 ジョルジュ・サンド
1848年の二月革命の挫折を経て、故郷ノアンでの隠遁生活を始めたジョルジュ・サンドは、動乱の時代を生きる人々の心を癒すことこそが芸術家の使命であると考えて本作を執筆した。本作はいわゆる「田園小説」四部作の第三作で、サンド作品の中では最も多くの邦訳が刊行されている作品である。
フランス中部ベリー地方の農村を舞台に、少女ファデットと双子の兄弟シルヴィネ、ランドリーの幼少時代から青年時代までが描かれる。ファデットは、村で爪弾きされている不器量な少女だったが、ランドリーからの愛情を受け、徐々に美しい娘へと変貌を遂げていく。一方で、弟を溺愛するシルヴィネは、当初はファデットに嫉妬するものの、いつしか彼女を愛するようになり、ランドリーとファデット双方への愛情の間で激しく葛藤することになる(この展開から某名作野球漫画を連想する者も少なくないだろう)。三人の繊細な心理描写を軸に展開される本作は、農村地帯で話される特有の言語、住民に浸透した伝承・伝説を提示しており、19世紀フランスの農村や農民の実態を我々に伝えてくれる史料でもあると言えよう。
(仏文太郎)
『ボヴァリー夫人』Madame Bovary, 1857 ギュスターヴ・フロベール
田舎で育ったエンマは、ブルジョアの典型のような愚鈍な夫シャルルとの結婚に嫌気がさし、少女時代に夢見た情熱的な人生に焦がれる。やがて不倫に落ち、借金の嵩んだ彼女の行く末は・・・
「ボヴァリー夫人は私だ」と作者は言ったというが、エンマの生涯は「ボヴァリスム」と名づけられもするように、青春時代の夢想と現実との断絶という、多かれ少なかれ誰もが経験するに違いないテーマを描いている。ただ筋立てだけを追おうとするとフロベールはあまりにも退屈に感じる。しかしその一文一文をじっくりと味わえば、凝縮されて一分の無駄も無い、これぞ文学という醍醐味が堪能できるに違いない。『感情教育』『三つの物語』等とあわせて、19世紀小説の金字塔の呼び名にふさわしい作品。
(毛髪山)
『レ・ミゼラブル』Les Misérables, 1862 ヴィクトル・ユゴー
原題の意味は「悲惨な者達」。『ああ無情』の邦題でも知られる。パン一個を盗んだがために投獄されたジャン・バルジャンは、やがて改悛して新しい生活を始めるが・・・
幾度も映画化されたユゴーの傑作小説。貧困と悲惨への惜しみない同情を注いだ作者ユゴーは、詩人であり、劇作家であり、小説家でもあって、とにかく膨大な量の書物を残した19世紀随一の怪物的天才。『ノートルダム・ド・パリ』『九十三年』等、他にも傑作ぞろい。ユゴーもまた、今もっと読まれていいはずの作家の一人である。
(毛髪山)
『テレーズ・ラカン』Thérèse Raquin, 1867 エミール・ゾラ
病弱な従兄弟と結婚させられた孤児テレーズは、墓穴にも似た薄暗い小路の奥で死んだような日々を送っていた。そこに夫の友人ローランが訪れた日に、彼女に潜む野性的情熱が目を覚ます。不倫の障壁である夫が邪魔になった二人は…。
ゾラはセザンヌの親友であり、マネ批評で頭角を現した美術批評家でもあった。新聞の三面記事のような物語展開に躓かずに、「日が差し込まずジメジメしたパッサージュ(アーケード)」、「水死体が陳列されるモルグ」などの「絵にならない」風景がどれほど印象派絵画的に描写され、物語の展開における決定的な場面となっているか味わって欲しい。
(笑入空)
『脂肪の塊』Boule de suif, 1880 ギ・ド・モーパッサン
自然主義者として有名なモーパッサンのデビュー作。感傷を排した客観的な描写、卑俗な現実を、古典的なまでの形式美の内に収める芸術的手腕。作者が瞬く間に文壇の大御所に上り詰めたのも頷ける。ちなみに「脂肪の塊」とは娼婦のあだ名。
(毛髪山)
『未来のイヴ』L’Ève future, 1886 ヴィリエ・ド・リラダン
テクノロジーの進歩が著しい現代において、ロボットと人間の付き合い方は度々議論にあがる。全てのロボットがドラえもんのように心穏やかで、常に利益を人間にもたらすとは断言しがたい。ロボットが意思をもった途端、彼らは人間に歯向かうかもしれないという危惧が『攻殻機動隊』や『ブレードランナー』などの作品には見受けられる。
こうしたアンドロイドと人間の関りを主題とした最初期の作品は19世紀末にリラダンによって書かれた。それは、『未来のイヴ』という耽美的な世界観を持つ作品だ。ここでは、ネタバレしない程度に粗筋を紹介する。青年貴族エウォルド卿は恋人アリシアに絶望していた。なぜならば、彼にとって、彼女の「肉体」と「魂」は非常にかけ離れているからだ。そこで、ファウスト博士を彷彿させるエジソンは、エウォルド卿のために、アリシアと外見のみ瓜二つの見目麗しい人造人間ハダリーを作成する。予めプログラムされた言葉しか話せないはずのハダリー(アンドロイド)をエウォルド(人間)は「愛する」ことができるか?
この主題を通じて本書では、アンドロイドと人間の境界の曖昧性に加えて、男女の恋愛の幻想性も暴いている。いや、本書を読んで、愛について、その神聖さに感動するのか、あるいは人間が作り上げた幻想であると悲観するのか、それは読者の判断に委ねられているのだろう。
(C. T.)
20世紀以降
『狭き門』La Porte étroite, 1909 アンドレ・ジッド
「力を尽くして狭き門より入れ」という聖書の言葉をモチーフとして、美徳と、現世での幸福との相克を描いた恋愛小説。前半は男性ジェロームの視点から語られ、後半のアリサの日記によって、それまで隠されていた彼女の本心が明かされるという構成には、推理小説的な読解の妙もある。宗教や道徳といった問題に比較的疎い今の私達に、一見この小説はなじみにくいかもしれない。けれどアリサの苦悩を通して、幸福とは何かという問いに各人なりに向き合う時、彼女の生き方そのものが、多くのものを語りかけてくるように思われる。誰だって幸福に生きたい。しかしどのような生き方が幸福なのかと考え始めれば、それはあまりに難しい、そして文学的といっていい問いかけなのである。
(毛髪山)
『失われた時を求めて』À la recherche du temps perdu, 1913-27 マルセル・プルースト
フランス小説史上の最高傑作(質・量ともに)。裕福な青年が社交界での様々な経験を経て、やがて作家になるべきことを決意するに至るまで、と筋を述べたところでプルーストの真価は分からない。あまりにも長すぎる一文一文の中に、繊細なまでの心理分析と、汲みつくせない詩情とが溢れている。恐れずに書を手に取られたい。一度はまったら、もう二度と抜け出すことの出来ない豊穣な世界がそこにあるのだから。
(毛髪山)
『肉体の悪魔』Le Diable au corps, 1923 レイモン・ラディゲ
子どもでもなく、大人でもない、ある一時期が人生にはある。『肉体の悪魔』はそうした青年期の心理を自己分析によって語りながら、なお感傷に溺れることのなかった稀なる作品だ。これこそは青春期に読まなければいけない。読めばきっと衝撃を受けるだろう。未読の者には一秒でも早く手に取ることを勧めたい。作者が16-18歳の時の作品。ラディゲは20歳で夭逝した。なお、映画も必見。
(毛髪山)
『百頭女』La Femme 100 têtes, 1929 マックス・エルンスト
この作品は、いわゆる「古典」、「名作」などと呼ばれ人々に愛されてきたものではない。どちらかといえば「奇書」に属するといえる。なぜなら、明確なストーリーはそもそも存在せず、エルンストの手によるコラージュ作品に物語風のキャプションが添えられているだけだからである。しかしながら、不思議なことに全体を通して見ると一つの物語が展開されているように感じるため、文学史的には「コラージュ小説」と一応分類されるようである。
とにかくそこに描かれているイメージは強烈である。例えば、「怪鳥ロプロプ」というエルンストの作品において重要なコンセプトの一つとなる化物が現れる。他にも、強迫的に繰り返される表現や性的暗示など、珍妙でユーモラスなシュルレアリスム世界が広がっている。初読時には肩透かしを喰らったような気持ちになるが、なぜか忘れられなくなってしまうような魅力がある。また、同じようなコラージュ作品では、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』や『慈善週間または七大元素』の邦訳が出ている。
ブルトンの言葉を借りれば、この作品はまさに「痙攣的」な美を備えている。
(丸山)
『恐るべき子供たち』La Les Enfants Terribles, 1929 ジャン・コクトー
1929年に発表されたコクトーの代表作で、わずか3週間足らずで書き上げられたと言われている。エリザベートとポールの姉弟はふたりだけで「子供部屋」と呼ばれる、外とは隔絶された独自の世界の中で暮らしていた。ある日、ポールは密かに憧れていた美しい生徒ダルジュロスの投げた雪玉によって負傷してしまい、介抱のために級友のジュラールが「子供部屋」に加わることになる。後にはダルジュロスそっくりの少女アガートも部屋の一員となり、4人の「子供たち」の無秩序で混沌とした共同生活が繰り広げられる。この辺りが、物語のあらすじである。
本書は2部構成になっており、第一部では「子供部屋」での生活の様子や彼らの騒がしいやり取りの様子がときに面白おかしく、第二部ではラストシーンに向かって畳みかけられ加速する怒涛の展開が描写されている。物語の構成や内容にギリシャ悲劇的な側面が見られるという指摘も多くなされており、ある一つの避けられない運命に向かっていく4人の精神や心情を細かに描写した、悲劇的な心理小説と言えるだろう。かと言って作風は堅苦しいものではなく、笑える場面もいくつかあるので、比較的読みやすい作品の一つに数えられるように思う。
また、この小説のもう一つの面白いポイントは、画家としても活動していたコクトー直筆のイラストを見られるところである。主に場面を説明する絵が多いため、話の流れを把握する手助けともなるだろう。くすりと笑えるようなイラストもいくつかあるので、ページをめくるのが楽しみになる人もいるのではないかと思う。
以上、『恐るべき子供たち』の魅力についてお話しさせていただいた。コクトーの独特な世界観が、比較的読みやすい長さに詰まっているので、お手に取っていただけると幸いである。
(安部)
『異邦人』L’Étranger, 1942 アルベール・カミュ
大学の卒業論文でもっともよく取り上げられる作品の一つ。他には『狭き門』や『肉体の悪魔』、そしてランボーなど。青春の書とでも言うべきだろうか。フランス語が比較的簡単ということはある。けれど極めて抑制された無機質な文体にこそ、世界と相容れることのない「異邦人」の姿が鮮やかに浮かび上がる。犯した罪の理由を「太陽のせい」とするのはあまりに有名。一切の偽善に否を突きつけるムルソーの姿は今なお色褪せることなく鮮烈だ。
(毛髪山)
『星の王子様』Le Petit Prince, 1943 サン=テグジュペリ
言わずと知れた、児童文学の名作(ということになっている)。関連書籍もたくさん出ているので、好きな人は探してみるといい。挿絵は全て作者の手によるもの。
この作品を嫌いという人は少ない。だが例えばワイルドの『幸福の王子』と比べてみれば、この王子様がただの「善の象徴」でないのは明らかだ。ある意味では極めて個人主義的な思想を貫く王子様の姿に、エゴイスムを見て取ることは出来ないだろうか? それは作者の秘めたる孤独の現われなのか、あるいは理想の姿なのか。
なんて御託はともかく、一読忘れがたい印象を残すのは確実。本はいつ読んでもいい。けれども若い時に読んでおきたい本というものがある。この本はその筆頭。ちなみに、作者の故郷、リヨンの町には、飛行服姿の作者の銅像が立っていて、肩に王子様が座っている。
(毛髪山)
『悪童日記』Le Grand cahier, 1986 アゴタ・クリストフ
ハンガリー出身の作家アゴタ・クリストフのデビュー作。戦争が起こっている中、双子は母親に「大きな町」から「小さな町」へ連れて来られ、祖母の家に預けられる(人物の名前や地名などの固有名詞は示されない)。決して優しいとは言えない祖母と暮らしながら、二人だけで生きる術を身につけていく双子の周りで、読者の度肝を抜く出来事が次々巻き起こる。
「ぼくらnous」という一人称複数形が語り手となる稀有な作品であるというのも一つの大きな特徴だが、子供が書いた日記という形をとっていること、フランス語は作家の母国語でないということもあり、平易な文章であるため、フランス語初級・中級者が初めて原文で小説を読む際にうってつけのテクストではないだろうか。また、2013年に実写化された映画も必見。
(仏文太郎)
『天国でまた会おう』Au revoir là-haut, 2013 ピエール・ルメートル
2014年、『その女アレックス』が邦訳出版され、フランスのミステリ作家としてのピーエル・ルメートルの名は日本国内で一気に広まったと言えるが、本作は2013年にゴンクール賞(日本での芥川賞や直木賞のような賞)を受賞した作品。第一次世界大戦後、顔の下半分を失う怪我を負ったエドゥアールと、彼に命を助けられたアルベールの物語。戦没者が讃えられる一方で戦傷者は冷遇される世の中への反感から、二人は壮大な詐欺計画を企てる。ミステリ出身の作家ということもあり、読者を飽きさせず、驚嘆させる筋も魅力の一つ。2017年に実写化された実写映画も良作で、続編の『炎の色』、『われらが痛みの鏡』も邦訳出版されている。『その女アレックス』を含む「カミーユ・ヴェルーヴェン警部」の三部作もミステリ作品として非常に面白いので一読の価値はあるはず。
(仏文太郎)
『セロトニン』Sérotonine, 2019 ミシェル・ウェルベック
2010年『地図と領土』でゴンクール賞を受賞し、ノーベル賞受賞も噂される現代フランス小説家の代表格ミシェル・ウエルベックによって2019年に発表された『セロトニン』。主人公は化学メーカー、モンサント出身のエリート農業技官であり、抗鬱剤を常用するフロランだ。彼を取り巻く「耐え難い世の中」、現代のフランスが内包する様々な社会問題が独特な描写で巧みに描かれる。自由貿易によって疲弊するフランス農業従事者の姿、セックスやアルコールに依存する人々など、不器用に、そして苦しみながら生きていく人間の様は日本に暮らす私たちとっても非常に通じるものがある。読み進めて行くうちに、まったりと喘ぎ続けるフロランに徐々に引き込まれ、またウエルベックの世界、他の作品にももっと浸りたいと気付かぬ内に魅了されるだろう。
(NRK)
映画紹介
『パリタクシー』Une belle course, 2022
パリでタクシー運転手をしているシャルルは、金銭的トラブルを抱えていて、家族のために何とか工面しようとしている(おまけに、次に違反切符を切られたら免許停止という崖っぷち)。そんな彼のもとに長距離送迎の依頼が舞い込み、マドレーヌという名の92歳の婦人を介護施設まで送り届けることになる。道中、マドレーヌは自身の身の上話を語りながら、思い出のある場所へ寄り道をするよう要求する。無口なシャルルがマドレーヌに心を開き始めると同時に、彼女の回想は思いもよらない方向へと進んでいく…
二人がパリの街を移動する中で、タクシー内での会話とマドレーヌの回想、緊張と緩和が絶妙に繰り返される。二人の関係とあわせて、パリの名所や街並みも堪能できる本作の90分間は、まさに「Une belle course 美しい道のり」と言えるだろう。
(仏文太郎)
『燃ゆる女の肖像』Portrait de la jeune fille en feu, 2019
舞台は18世紀後半のフランス。女性画家マリアンヌは、伯爵令嬢エロイーズの肖像画を制作するため、孤島の屋敷を訪れる。エロイーズの母に指示され、画家であることを隠し散歩の同行者としてエロイーズの観察を続けるマリアンヌは、次第に彼女に惹かれていき、エロイーズもまた…
同性愛を主題とする映画は最近よくあるが、侮るなかれ。言葉以上に、「視線」が多くを語る二人の関係をぜひ刮目していただきたい。
(仏文太郎)
『レ・ミゼラブル』Les Misérables, 2019
かの有名なヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の現代版と称しても良いであろう作品(いわゆる「レミゼ」とは異なるので注意)。舞台はまさに、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の舞台となったパリ郊外モンフェルメイユ。ある少年がサーカス団からライオンの子供を盗んだことがきっかけで、街全体に混乱が巻き起こる…
現代社会におけるles misérables「悲惨な人々」「哀れな人々」とは、一体誰なのだろうか。
(仏文太郎)
『シンク・オア・スイム:イチかバチか俺たちの夢』Le Grand bain, 2018
中年男性たちで組まれたシンクロナイズドスイミングのチームが世界選手権での成功を目指すという、実話を基にした物語。男性シンクロチームの物語と言えば、日本には『ウォーターボーイズ』があるが、こちらが高校生の青春物語であるのに対して、本作は大人の男女の苦悩と絶望、解放と希望の物語である。チームのおじさんたち、二人の女性コーチ、それぞれが家庭や仕事、私生活に問題や悩みを抱えていて、全員が物語の主人公とも言える。邦題だけを見ると(原題の直訳は『プールの最深部』という意味深いタイトル)、おじさんたちのドタバタコメディというような印象を与えかねないが、登場人物各々が自身の抱える問題と向き合いつつシンクロの国際大会へ挑んでいく様には胸を打たれる。なんだかやる気が出ない、辛いことがあった、そんな時に観ると背中を押してくれる映画。
(仏文太郎)
『エール』La Famille Bélier, 2014
農家を営むベリエ家は、長女のポーラと両親、弟の四人家族。ポーラ以外の三人は聴覚障害を持っていて、ポーラは家族の「通訳」的役割を担っている。ある日、高校のコーラスの授業中、音楽教師がポーラの歌声に天性のものを見出し、パリの音楽学校の受験を勧める。受験のことを家族に打ち明けられないままレッスンを受けながら、ポーラの心は、音楽と家族、二つの愛するものの間で葛藤する。その後、受験のことを知った両親は、ポーラに頼らない生活を試みるが…
聞こえないはずの歌声が家族の絆を強くする、そんな物語。終盤は涙なしには観られないので、ハンカチかティッシュのご用意を。大学進学を機に親元を離れてきた、という学生の心にも響くものがあるのではなかろうか。
(仏文太郎)
『アデル、ブルーは熱い色』La Vie d’Adèle, 2013
文学を愛する女子高校生アデルは、ある日街中ですれ違った青い髪の女性(エマ)に運命的なものを感じ、その日を境に、アデル、そしてスクリーンは青に染まっていく。後日、アデルはエマと再会し、関係を持ち始める…
二人のベッドシーンもさることながら、食事のシーンが印象的。フランス映画はなんだかよく分からない、というイメージを抱いている人も、食事中のアデルの心情を想像しながら観てみると何かが見えてくるかもしれない。
約3時間という長い作品だが、飽きを感じることなく二人の出会いから別れまでの物語に没入できる本作は、女性同士の恋愛を描いたフランス映画の金字塔的作品と言えるだろう。また、文学、哲学、芸術に関する会話が随所に散りばめられており、フランス文学を学ぶ学生にとって刺激的な作品とも言える。
(仏文太郎)
『わたしはロランス』Laurence anyways, 2012
鬼才グザヴィエ・ドラン監督によるこの映画はLGBTの主人公とその恋人の葛藤の物語であり、同時に自分らしく生きることに貪欲な一人の人間の生き様を描いた作品でもある。90年代のカナダ・ケベック州(ケベック州はフランス語圏)を舞台に、一組のカップルが運命的に惹かれ合い、愛し合いつつも、メルヴィル・プポー演じるロランスが女性として生きることを選択したことから恋人達の葛藤が始まる。個人的にはLGBTを主題とした映画というよりも、自らを貫き続ける主人公の姿勢に強く感動し、涙した作品だ。メルヴィル・プポーと、彼の恋人役であり他のドラン作品にも出演するスザンヌ・クレマンの格好良さ、さらにはスタイリッシュな衣装、音楽のセレクトなどグザヴィエ・ドランの世界観を堪能出来る必見の映画です!
(NRK)
『最強のふたり』Intouchables, 2011
フランス 、そして日本でも大ヒットした作品。実話に着想を得たストーリーで、身体の不自由な富豪フィリップと、世話係として雇われた若者ドリスとの関係が描かれる。事故が原因で身体に障害を負い、腫れ物に触るように扱われることに不満を抱くフィリップ。刑務所を出て間もない移民の青年ドリス。年齢、国籍、生活水準も異なるふたりは友情を育み、まさに「最強のふたり」となっていく。
原題の直訳は「触れられない人たち」。”誰が”、”何に”、「触れられない」のか、そのあたりも考えながら観てみると、コメディ映画とは違う、本作の別の側面が見えてくるかもしれない。
(仏文太郎)
『あるいは裏切りという名の犬』36 Quai des Orfèvres, 2004
しばしばフランスのフィルム・ノワールの傑作として挙げられる作品。パリ警視庁に勤め、お互い異なるチームに所属するヴリンクスとクランは次期長官候補で、発生中の連続強盗事件を解決した方を昇進させるという話が持ち上がる。ヴリンクスの主導で着々と事件の捜査は進んでいくが、二人の運命は静かに大きく移り変わってゆく…
家族と仲間を思う熱く渋い刑事ヴリンクスをオリヴィエ・マルシャルが、自身の出世のためにはあらゆるものを利用し犠牲にする憎まれ役クランをジェラール・ドパルデューが見事に好演している。
(仏文太郎)
『スパニッシュ・アパートメント』L’Auberge Espagnole, 2002
ロマン・デュリスを主演とするセドリック・クラピッシュ監督の「青春三部作」の第一作目(二作目は『ロシアン・ドールズ』、三作目は『ニューヨークのパリジャン』)。
主人公グザヴィエは、フランスを離れてバルセロナへ留学し、様々な国から集まった若者たちとシェアハウスでの共同生活を始める。グザヴィエの、フランスに残してきた恋人(演じているのは『アメリ』で有名なオドレイ・トトゥ)との遠距離恋愛、人妻との不倫関係と共に、国籍の異なる同居人たちの文化や考え方の違いが描き出されている。とはいえ、個人的には、何度観ても声を出して笑ってしまうコメディシーンが本作の最大の魅力だと思う。ぜひ、人目のないところで観て、思う存分爆笑していただきたい。
(仏文太郎)
『ディーバ』Diva, 1981
ジャン=ジャック・べネックス監督の初長編で、ヌーヴェル・ヴァーグ以降停滞気味だったフランス映画界を盛り立て、フランス以外でも各国でカルト的人気を誇った作品。
郵便配達員をしているジュールは、大ファンであるオペラ歌手シンシア・ホーキンスの公演中、その歌声を客席で密かに録音するのだが、その様子をシンシアの歌の音源を求める台湾人に目撃されていた(シンシア自身は録音販売を頑なに拒んできた)。一方、謎の男二人に追われる女が、男に殺害される直前に、駐車中のジュールのバイクの鞄に一つのカセットテープを滑り込ませていたのだが、そこに録音されていたのは巨大な売春組織の内実を語る告発だった。自ら盗んだディーバ(歌姫)の歌のテープと、偶然手に入れた告発のテープ。この2本のテープを巡って、ジュールは二つの組織から追われる身となる。見応えあるパリの街中での逃走劇もさることながら、多種多様に特徴づけられた室内のシーンも印象的。また、各々が服装や仕草、台詞から強烈な個性を放ち、まさに「キャラが立っている」登場人物たちも本作の魅力の一つと言える。
(仏文太郎)
『ロシュフォールの恋人たち』Les Demoiselles de Rochefort, 1966
ジャズ調のミュージックに重ねて、
なお本作品では、実生活においても姉妹であるカトリーヌ・
(C. T.)
『気狂いピエロ』Pierrot le Fou, 1965
妻との退屈な日々にうんざりしている、
妻を捨ててスリリングな日々に乗りだす…
ぜひ、色が綺麗に出ているブルーレイで見てください。
(マリー洗濯ネット)
『大人は判ってくれない』Les Quatre Cents Coups, 1959
ゴダールなどと並ぶヌーヴェル・ヴァーグの旗手、フランソワ・トリュフォーの最初の長編作品。原題を直訳すると「400回の打撃」となるが、フランス語には、faire les quatre cents coupsで「(子供などが)乱れた生活を送る」ということを意味する慣用句がある。物語の軸となるのはまさに、「悪がき」「問題児」というような呼び名がしっくりきてしまいそうな少年アントワーヌの素行の悪さ。成績も悪く授業中にはイタズラをし、学校を無断で休んだ翌日には「母親が死んだ」と嘘をつくアントワーヌ。そんな彼だが、学校ではろくに話も聞いてもらえず教師から頭ごなしに叱られ、家庭では両親の喧嘩を聞きながら寝袋にくるまって眠る日々を送り、しまいには街中で母親の浮気現場を目撃してしまう。こうして抑圧された子供の感情の行き場のなさが「非行」という形で静かに映し出され、最後にはアントワーヌは鑑別所送りになってしまう。まさに、「大人は判ってくれない」のである。物語の筋自体に大きな波はない中で強く印象に残るシーンがいくつかあり、そのシーンは人によって様々だと思われるが、最後のシーンは観る人皆に強烈な印象を与えるだろう。
(仏文太郎)